あれから一週間。
いろいろなことが分かってきたが、
情報が錯綜している感も否めない。
しかし、みんな後方支援として
ネット上の情報をまとめてくれたりと懸命だった。
友人の佐伯綾は当日の夕方
「生きてるけど地獄」とだけメールが来たきり音信不通になっていた。
佐伯綾の住む門脇あたりは、地震が来て津波が来てさらに大火災になっていたという地域。
ちゃんと逃げられたかどうか心配だった。
そして三日目の朝、googleのpason finderってやつで佐伯綾の情報を発見。
門脇中学校にいるが食べるものがなくて大変と連絡が来た人がいた。
これは大変だと思い、うちの実家も大変だけど、おかんに連絡して
佐伯綾を行かせるからなにか食べ物をあげてと頼んだ。
おかんは門中まで行くか?と聞いてくれたけど、
他の食べられないでいる人にあげないわけにいかなくなるから行かせるのでよろしくと言っておいた。
ケータイは繋がらないけど、うちの実家に行ってくれとメールを佐伯綾に送っておく。
その後、妹が門中まで上がってくれて佐伯綾を探しに行ってくれたようだが
妹が門中に到着する1時間前に、仙台から弟が迎えに来てくれて仙台へ行ったとのことだった。
弟!
そうか弟は仙台だったのか!
よかった!よかったよぅ!
夕方母からも、佐伯綾は仙台に行ったって。とメールがあって
余計な心配をかけてしまってすまないとメールをしておいた。
でもよかった。ほんと。
その日の夜、弟が仙台に連れてってくれたみたいでよかった!!!とメールをしたら
なんで仙台に行ったって知ってるの??まだ水も電気もないけど、ほんと久々にふとんで寝れるよ。とメールが返ってきた。
メールが返ってきたから電話が繋がるようなので慌てて電話してみる。
電気がないということは、夜はまっくらですから、
他の方々は寝ているようでこそこそと話す。
声聞くと安心するのか、2人でぐずぐず泣きながら、よかったよかったと。
死んでる人か生きてる人かわからない声がいっぱい聞こえて、もう地獄だったと。
文字通り必死に逃げて、やっとたどり着いた門中では、
20人で2枚の油揚げとか2丁の豆腐とかしかなかったらしく
ほんとにつらかったとのこと。
ましてや毛布なんてないだろうし、この寒い中雑魚寝とは想像を絶する。。。
避難については、ほんとに日和山の崖を上った状態。
ご両親もなんとか無事だったみたいだけど、そうとうきつかったと思う。
ほんとにせつない。
でもほんとに生きてるだけでまるもうけなんだなと思った。
でもこれからどうやって生活していくのかを考える余裕が出てきたとき
私はいったい何をしてあげられるだろうか。
どんな声をかけてあげられるのだろうか。
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